独身ひとりっ子の 親の葬儀

第1回 深いお辞儀

令和五年十月二十一日の深夜、母が旅立った。

享年九十三。
死亡診断書に記された死因は「老衰による心不全」である。僕が物心ついた頃からずっと血圧の薬は手放せなかったが、ほかにはこれといって悪いところもなく「大往生」といえる締めくくりだった。

最期の足かけ三年は、老人施設のお世話になった。
十数年前に親父が逝ってからは「気楽に暮らしたい」と最大限にヘルパーさんの手を借り、デイサービスも大いに利用したりしながら有言実行そのままに楽しげに過ごしていたが、数年前に膝の痛みが出始めてからは「ひとりぐらし」にも限界を感じ始めていたようだ。

築五十年以上の家である。
バリアフリーなどという概念すらなかった当時に建てた家は平屋ではあっても表から玄関に上がるまでには階段があり、三和土の段差も今どきの家よりも遙かに高い。家の中もあちこちに敷居の出っ張りがあり茶の間と台所の行き来、用を足してから洗面所で手を洗うのも「障害物競走のようなものなだわね」。実家に帰る度に玄関、トイレ、と手すりが設置される場所が増え、懇意にしてくださったヘルパーさんの勧めもあって老人施設への「移住」を決めた。

最初は、僕が適当なところを見つけて…と思っていたが「自分で見たい」と言う。
それからはヘルパーさんを伴って暫くは内見ツアー。それはそれで楽しかったようで「きょうは、あそこを見た。先週見たところよりも施設の人は優しそうだったけれど、部屋と食事がイマイチ」などと細かに電話で知らせてきた。

おそらく七〜八件は見たと思う。
最終的に選んだのは、家からクルマで十分ほどの、駅でいえば二駅離れた施設だった。建物のすぐ近くに地元では「古刹」として知られる寺院があり「空気が違った」そうで「なんだか、安らいだ」というのが最大の決め手だったのだそうな。

入居の日、多少の身の回りのものと小さな整理ダンス、親父の位牌を携えてこぢんまりとした引越しをした。
当面は空き家になってしまうのでいつもより念入りに火の元を確かめ、玄関に鍵をかけてクルマに乗せようとすると「ちょっと待って」。忘れ物かと訊くと首を小さく横に振り、家の方に向き直って「お世話になりました」と深々と頭を下げた。

嫁いできたのは昭和二十九年。
人並みに姑の苦労を味わい、家を建て、子どもを産み育て、夫を看取った。民生委員をしていたこともあったから近所づきあいも濃かったろう。そんなこの家を、地域を初めて離れる。あのお辞儀には万感という言葉では収まりきらない思いと「還れないかもしれない」覚悟が込められていたようだ。

二〇二〇年の晩秋。
九〇歳を過ぎて、母のあたらしい暮らしが始まった。

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吉田正幹

アラフィフ男子のキッチン365日「吉田正幹」です。普段着ごはんを提案する料理活動を7年間続けています。皆さんの食生活に彩りを添えるため、これからも活動を続けます。